手子神社

手子神社拝殿

釜利谷の総鎮守。手子明神ともいう。釜利谷の領主伊丹左京亮経貞が文明5年(1473)に瀬戸神社の分霊を宮ヶ谷に祀ったのが起源。数度の改修の後、経貞の7代目で、浅草寺別当職の忠運が延宝7年(1679:将軍は三代家綱)に現在地に再興した。祭神は瀬戸神社と同じ大山祇命(おおやまつみのみこと;伊弉諾尊、伊弉冉尊の子供)である。現在の社殿は関東大震災後に再建され、更に屋根は昭和45年に現在の銅葺に改修されたものである。

それ故、手子神社は、戦国時代初期から江戸時代初期まで、204年間も宮ヶ谷に鎮座していたことになり、宮ヶ谷の町名はこの由来から、とは長老から聞いたお話である。

伊丹忠運は慶安元年(1648)に江戸浅草寺別当地楽院を継いだ。

境内には境内社「竹生島弁財天」(または小泉弁財天社)があり、古くより金沢八景の一つ「小泉の夜雨」の勝景の中心として神社の東側にあったが、昭和15年海軍の施設建設により現在地の拝殿左の岩屋に移建し遷祀されている。

専任の宮司はおらず、宮司は瀬戸神社の佐野宮司が兼務している。

 

更に余談となるが、忠運の父の忠尊は江戸時代前期の天台宗の僧で、慶長15年(1610)頃の前記浅草地楽院の住職で、家康を祀る紅葉山東照宮の別当を兼務した。忠尊は家康の覚えめでたく、坂本村の御神領化、荒痛文殊*の浅草寺への移祀、禅林寺の再興などに影響力を発揮したとされている。

(*禅林寺の裏山に文殊菩薩像があり、村人の信仰を集めていたが、ある日山崩れが起き、像が埋まってしまった。地中から、「あら痛や」という声が聞こえたので、掘り起こしてみるとこの文殊像であった。禅林寺に安置されたのち、当時の将軍家光の命により、浅草寺に移された)

 

以下のブログに手子神社の詳細が記されている。(作者不明なので、無断引用多謝)

http://4travel.jp/travelogue/10544528

 

 

 左の写真の幟は夏祭りの時だけ立てられるもので、文字が左右反対になっているが、

 

奉納手子大明神  宿若者中

 

と読める。

この幟は、平成6年の奉納であるが、それまで掲げられていたものは、何と明治14年奉納とあり、110年間も掲げられてきたことになる。

古い幟は現在でも夏祭りの時には、平野会長宅の庭に毎年掲げられる。通しでは、134年間にも及ぶことになり、驚くべき数字となる。明治初めの作品であっても、文字柄も染め様も現在のものと全く同様である。このことは、宿の人たちが如何に手子神社を守り神として大切にして来たかを物語っている。

 さて、最近になって、こんな編者の浅知恵ではなく、手子神社を深く研究されている方の中身の濃い記事を発見した。すぐ近所の、同じ釜利谷関ヶ谷の方である。ご参考にされたい方は下行の「手子神社」をクリック、報ふれあい」の中の「緑道さんぽ、『釜利谷の鎮守・手子神社あれこれ』」をご覧下さい。

 

                                                                                                        「手子神社

 

 

 余談

このように、手子神社と宿町内会は切っても切れない関係がある。歴史的には、手子神社の所在地は、昔は宿村字宿であったと考えられる(新編武蔵国風土記稿による)。それが、現在の町名で見ると、どういう風の吹き回しか、宿町内会は釜利谷東、手子神社の所在地は釜利谷南となり、町名が違っている。これは、旧釜利谷を、東、西、南に分ける時に、お役所が地域の歴史や、由緒ある町内化のの区割りなどかえり見ることなく、道路などで適当に線引きした結果であろう。これについて疑問を呈すれば、お役所からは「これでいいか、というパブリックコメントを求めたはずだ」という答えが返ってくることはまず間違いない。そういう意味では、宿町内会の人たちが、線引き決定前に、細かいことに気が付かなかったか、或いは泣く子と地頭には勝てぬ、と思ったものと推測される。お囃子と手子神社を愛してやまない一人として、大変残念に思っている。

このような例で、編集子が気づいたところでは、「乙舳町」がある。「おつとも」とは、広重の金沢八景の絵をみても分かるとおり、「乙艫」と書かれている。この「艫」はトモと読み、船尾のことである。初めは、昭和14年に野島町から分かれて乙艫町が新設された、と金沢の歴史にあるが、それが、昭和50年の町名整理の折、乙舳に変更された。この「舳」という字は、普通には、トモとは読めず、「ヘサキ」と読まれる。町名変更で、船尾が船首に変わってしまったのである。この経緯を区役所に聞いてみたが、結局は分からない、とのことであった。これなども、なぜ町内の人が意見を言わなかったか、不思議なことではある。

 

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祭囃子について

祭囃子の発祥は、京都祇園囃子とされている。しかし、これに疑問を抱く向きもある。すでに古代日本には、太鼓・金器などを用いて虫送り・疫神送りなどの風習が存在し、祇園会の疫放逐行事に先駆する。むしろ祭囃子は、中国の爆竹などと同じく、強烈な音響をもって魑魅魍魎を街頭から呪圧することに発端し、それが、笛・太鼓・鉦という単純な器楽の整頓を受けて囃子を構成し、道を行く山車と神座として祭祀音楽化したものであろう。従って夏祭りの行道に多様されるその洗練された形式として京洛祇園囃子を挙げることはできても、全国の祭囃子の発祥をそこに置くことはできない。

神奈川県の場合、松田町寄の祭囃子を除き、そのすべてが江戸系であって、その時期も18世紀以前には遡れない、と見るのが妥当である。(江戸時代の享保の頃、下総葛西地方から伝流した、という小田原伝承が一番古いとされているが、葛西から直接移入したか、一旦江戸を経由したか不明)

通説としては、祭囃子は、江戸の天下祭と呼ばれる大祭礼(神田祭、山王祭、根津権現祭、三社祭)の隆盛とともに葛西囃子が江戸市中に迎えられ、神田・目黒・深川・品川・佃島等に拠点を持つに至り、各々その町名を冠して、神田囃子、目黒囃子等々と呼ばれるようになったという。概観して横浜・川崎など旧武蔵の国の祭囃子は、目黒囃子、品川囃子のお流系が圧倒的に多い(神奈川県民俗芸能誌より)。

以上のことからすると、金沢区の各町内の木遣・祭囃子も源流は江戸にあり、と見て誤りではないであろう。

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木遣について

29年夏祭りで、神輿渡御出発前の祝いの木遣

「木遣り唄」といえば、消防の出初式のアトラクションに行われる、火消し、鳶職達が梯子乗りで合掌する「江戸木遣り唄が有名です。というよりも、大抵の人達が、「木遣り唄」とは「江戸木遣り唄」のことだと思っているようです。実は「江戸木遣り唄」は仕事唄の木遣り唄が磨き上げられ、儀式などで歌う祝儀唄に変化したものなのです。(宮内仁氏著、「日本の木遣唄」の前書きから抜粋)

 

このように、昔、重機の様な機械のない時代は、重いものを動かす時、多くの人たちが集まっても、誰かが「せーの」と言って、呼吸を合わせなければ、全員の力が集中できません。早い話が、この「せーの」(とは言わなかったでしょうが)が、これだけでは面白くないので、指導的立場にある人(頭)が、「せーの」の前に何か短い唄をつけた、というのが始まりのようです。編集子が子供の頃は、家を建てるのに、現在のようなコンクリートの基礎ではなく、その代わり、大きな石を巨大な槌で土中に叩き込みました。そのやり方は、木で高い櫓を組み、その中心に直径30cmもあるような太く長く重い柱と組み込み、その途中には太い綱が4本とりつけられて、その綱は滑車を通して櫓の外に垂れ下がっていました。この4本の綱には、それぞれに人が配置され、綱を一斉に引くとこの重い柱は1.5mほど持ち上げられ、そしてまた一斉に綱を緩めると、柱は一気に落ちるのです。真ん中にいて柱の落ちる先を石に命中するように、柱の根本につけた綱で制御するのが、頭です。編者の田舎では、頭が長々を何かを歌い、最後に「えーんやら」というと、縄を引く人たちは、「やーれこのー、えーんやら」と唄って一呼吸おき、「こら」と歌ってもう一度縄を引っ張り、そして「やーあれえっ」と唄って一斉に綱を緩めます。すると柱はどさっと落ちるのです。つまりこの柱が大きな槌になるわけです。

この頭の唄は、頭個々により全部違うので、覚えておりませんが、文句が面白いので、良く現場へ見に行ったものです。たとえば、「腹減ったー、早くう帰ってええ、飯食いてえええ、えーんやら」というようなもので、アドリブで歌っていたので、どんな文句が出てくるかわかりません。下ネタも多分にありました。これが東京では、丸山明宏歌う「よいと巻け」とうたわれたようです。「母ちゃんのためならよい巻け」などとやってますよね。

このような唄も木遣の元の一種となったものと考えられます。

 

要するに、木遣の元は作業歌で、先の宮内氏によれば、木遣唄は7つに大別されるとしています。すなわち

 

〇石引き木遣唄・木曳き木遣唄

〇土搗き木遣唄・石搗き木遣唄 (前述のよいとまけの類)

〇棟上げ木遣唄

〇舟卸し木遣唄

〇漁猟木遣唄(魚、猪などの運搬時に)

〇山車曳き木遣唄

〇祝儀木遣唄

で最後の2つ以外はすべて作業歌です。

 

現代は機械が発達していますので、上の5つの作業唄が唄われることはまずないのでしょうが、かつて、仕事唄が祭り唄に変化する様な影響をおよぼしたのが、「伊勢音頭」です。昔はお伊勢さん参りは盛んで、そこで歌われた伊勢音頭は参詣者によって全国にその影響をおよぼしました。たとえば、「津軽願人節」という青森の民謡、「広島木遣音頭」などは、伊勢音頭にとてもよく似ています。広島木遣音頭などは、まるで伊勢音頭です。伊勢音頭には、最後に囃子がつき「やーとこせー、よいやなー、あれわいせー、これわいせー、このなんでもせーー」と唄われます。お座敷唄ですが、この囃子は作業歌にも持って来いです。

ここから示唆を受けることは、伊勢と言えば神、そして広島ではこれが木遣と結びついたのです。こういうことから、木遣は作業歌から神聖な山車曳きや、祝儀唄になって行ったと編集子は考えています。

 

四丁目

 曲名「四丁目」は「シチョウメ」と読みますが、これだけは、変わったニュアンスの曲名です。「仕丁舞」が変化したものだとも言われています。しかし、この「四丁目」は、神田囃子を含め各地のお囃子に沢山見られます。それどころか、寄席囃子や、歌舞伎の下座音楽にまであります。但し、東京の寄席囃子は、上方落語から取り入れたもので、歴史は浅いようです。

歌舞伎の下座音楽は、踊りや動作にあわせていろいろな種類がありますが、たとえば、「六段の合方」というのは、有名な筝曲六段から取り入れたもので、「武家屋敷での台詞の間」に奏されるそうです。そのほか、長唄から取り入れられた「合方」沢山あります。

では「四丁目」は、というと、「 祭礼での喧嘩」の場面で演奏される、とWikipediaにはあります。同様に歌舞伎には、「昇殿(神田囃子)や、鎌倉という下座音楽もあり、いずれも「祭礼にて、幕明・幕切・人物の立ち廻り」とあります。

 四丁目は、歌舞伎ばかりか、長唄にも取り入れられているようで、以下に芸大出の長唄の先生のブログから拝借した記事をコピペします。

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四丁目のこと


「ヨンチョウメ」じゃありませんで「シチョウメ」と読みます。過去に何を思ったか「チョーシメ」とおっしゃった方がおられましたが、その方はギョーカイの方じゃございませんでした。

本行の「四丁目」という囃子はけっこう文法がはっきりとあります。カシラ、地、上ゲというパターン(アタマがあってオナカがあってオシリがあるということですね)を繰り返して最後に大きな上ゲを打っておしまいという、お能の囃子と同じような文法です。

長唄囃子の「四丁目」は形ばかりの「カシラ」や「上ゲ」はありますがこれはないことも多くてですね、突然始まって突然終わる、みたいなことが多いです。ですからこの手組のベースは本行の「力四丁目(リキシチョウメ)」で、その変形だと思われますが、時として「皮違い」みたいなアクセントの手を打つこともありますので、あながちそうとも言い切れないところが悩ましいところです。

「芸大系神田祭」では大小鼓を入れないこともあり、そうすると普通の「段切」になりません。ですから代わりにこの「力四丁目」を打ち囃して幕にすることもあります。

「力四丁目」という囃子は別名を「投げ合い」といいます。お祭りの時、囃子方が屋台の上にいて何をしていようと、たとえ他の曲を演奏中でもお神輿がやってきたら演奏することになっているようです。近くなるほど速く、大きく演奏して、見えなくなるとフェイドアウトしたり、軽く上ゲの手を打って終わります。他の曲を演奏中だったらその曲の途中に戻るのです。御輿が宮出し、宮入りする時にも囃されたりもしてます。

本行では「屋台の上で演奏する時は太鼓方が二人」というのが原則です。そのためかプロの演奏を聴いていますと、太鼓方二人がリズムを自由にアレンジして演奏していることが多いです。プロの囃子方が演奏する「力四丁目」は上質なセッションを聴いているよで、心地よいですよ。

祭囃子の演奏は基本がそうとうに自由なようで、習った年が違うと微妙にリズムが変わっていたり、お笛のメロディを聴いていないと何をやってるんだか不明なこともあります。いや、わかる人にはわかるのでしょうけれど… 

 (望月太喜之丞先生:http://takinojo.jugem.jp/?eid=685)

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 この先生のブログによれば、正天(昇殿、聖天とも書き、どれが正しい分からないが、字画が少ない正天と書くとあります)、屋台、神田丸まで長唄に取り入れられているとのことです。

 このように調べると、長唄にしても寄席囃子にしても、祭り囃子から曲を取り入れていることがわかります。両者とも、私達のお囃子よりは歴史が浅いということですね。もっと歴史の深い「能」を調べてみると、さすがにお囃子の影響はない、どころか、お囃子の笛が

能管(能の笛)の影響を受けている様子がみられます。能管家元の基本は「オヒュー」だそうです。これは、正に私達が教わった「くりがため」の出だしです。

 

  たまたま寄席囃子の「四丁目」の音源のさわりを入手しましたので、以下の音声を聞いてみて下さい。寄席だけに三味線が目立って、笛はあまり聞こえませんが、私達の四丁目とはまるで違うことがお分かりかと思います。